カショオ界隈は、SNS上で過食嘔吐という行為や、その衝動、葛藤、日常について語る人たちが、ゆるやかにつながって形成された空間を指す言葉だよ。
ただし、これは明確なグループや思想があるわけではなく、ハッシュタグや共感の連鎖によって結果的に界隈として認識されている状態に近い。
本人たちは界隈を名乗っていないことも多く、外から名付けられたラベルとしてカショオ界隈と呼ばれている側面が強いんだ。
そのため、当事者の語りと外野が抱くイメージのあいだには、かなり大きなズレが生まれやすい。
なぜSNSでカショオ界隈が存在するのか
吐き出す場所としてのタイムライン
カショオに関する投稿は、見せたいから発信されているというより、耐えきれなくなって外に出てしまった言葉であることが多い。
リアルな生活の中では、家族にも友人にも説明できず、言語化する場がない感情が溜まり続けていく。
だからこそSNSは、誰かに向けてというより、空間に投げる感覚で使われやすい。
SNSは共感も否定も同時に返ってくる場所だけれど、少なくとも完全な沈黙よりは反応がある。
その反応は救いになることもあれば、逆に依存や自己固定を強めてしまうこともある。
カショオ界隈が誤解されやすい理由
見えているのは行為だけ
外から見ると、なぜそんなことをするのか、甘えではないのか、注目されたいだけではないのか、という疑問や批判が向けられやすい。
しかしSNSに流れてくるのは、結果として表に出た行為や感情の断片だけだ。
そこに至るまでの、自己嫌悪、コントロール感の喪失、不安、安心したいという欲求はほとんど可視化されない。
行為が前面に出るほど、理由は見えなくなるという構造そのものが、誤解を生みやすくしている。
カショオ界隈という言葉がもたらす距離
ラベリングの功罪
カショオ界隈という言葉は、現象を説明するには便利だけれど、人を一括りにしてしまう力も同時に持っている。
界隈と呼ばれた瞬間に、個々の事情や差異は見えにくくなる。
また、界隈扱いされることで、本人たちが自分を役割化してしまうケースもある。
自分はこういう存在だから、どうせ理解されないから、という自己認識が固定されてしまうことも少なくない。
その結果、抜け出す選択肢そのものが視界から消えてしまうこともある。
カショオ界隈に周囲ができること、できないこと
理解しようとしすぎない優しさ
大切なのは、無理に理解したふりをしないことだと思う。
そして、正そうとしすぎないこと。
SNSでは、心配のつもりで投げた言葉が、相手にとっては監視や圧力として受け取られることがある。
できるのは、決めつけずに読むこと、消費せずに通り過ぎること。
見ない自由や関わらない配慮も、ひとつの優しさなんだと思う。
まとめ
カショオ界隈は問題ではなく現象
カショオ界隈は、良い悪いで切り分けられるものではなく、SNS社会と個人の孤立が交差した場所に現れた現象だ。
そこには弱さをさらけ出してしまう人もいれば、必死に平常を保とうとしている人もいる。
界隈という言葉の奥にいるのは、属性ではなく、生活している一人ひとりの人間だ。
そのことを忘れずに、遠くからでも静かに想像できる視点を持てたらいいなと思う。


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